この文章は、大正8年に刊行された「簡易食と安易食」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
京都の貧民窟
京都では三條寺裏に三畳一間の家へ六人居住しているが、この夏の暑苦しいのに、空気の流通もピッタリ止まっている。素っ裸に湯巻一つで、却って気楽そうにも見ゆる。それで衛生法に合って居るとは萬々思われないが、どこの子供を見ても、皆丸々と肥え太って居る。大人も随分健康そうに見える。若いものなどツヤツヤして真の美は却って紅粉青娥よりもこの方が多くを持っている。
柳原といえば如何にも大廈高楼軒を圧して立っている処のようだが、京都の柳原はそうでない。九尺二間の棟割長屋という貧窟の形容詞そのままよりも、モー一層の悲惨である。ここもまた三畳一間の家である。傾きたる軒、破れたる壁、家具と茶碗の雑居室、下駄とど丼の突合い珍しからぬ。状態は目も当てられぬ風情だけれども、住民の心理状態は酒々落々、少しも構うものでは無い。彼らは寧ろこの方を気楽に思ってるもののようである。
一貫町に至っては、ズンと上等。しかし、一軒の家は尚二畳と三畳の二間であって、家賃も月三円ということであった。